日本のひとに是非考えてもらいたいのは、しかし、ここで言う「英語」とはEFL
http://en.wikipedia.org/wiki/English_as_a_Foreign_or_Second_Language
のことであって、英語人が普段使っている英語とは異なる。
当たり前だが、英語人が普段つかう、というよりもそれによって自分の実体を形成している英語は地方語としての英語で、自分をじっと観察していると、外国語人と話すときには明らかに異なる英語の体系で考えて話をしている。
自分の母語が英語でありながらEFLで話している。
地方語としての英語の部分を分離しないと、外国人と話しをするのが難しいからです。
抽象的で判りにくいかもしれないので、おもいつくままに例を挙げると
「ライ麦畑でつかまえて」という本は、英語世界では驚異的な物語で、何がいちばん驚異的であるかというと、1940年代後半の俗語がふんだんに使われていて、しかも当時のティーンエイジャーの気取りくさった薄気味の悪いものの言い方で書かれているのに、いまだに当の(そういう古くさい十代のスタイルに最も反発するはずの)ティーンエイジャーが好んで読む本であることで、まるでもうパイが腐っているのに、元の味を想像しながら食べているひとたちのようであることです。
アメリカでは、一定のタイプ、自分が高い知性をもっていて、とびぬけて感受性が高いのに世間からは認められない、と感じているタイプの高校性にはいまでもたいへん人気がある物語である。
「疎外された者の経典」と皮肉をいうひともいる。
ところが、(amazon uk ではちゃんと4つ星がついているけどね)連合王国では、若い衆にはあんまり人気がない物語で、十代ならば、英語世界共通の話題として買って手にとってみるが最後まで読めやしない、という人間がもっとも多いと思う。
物語自体は「共感」するが、どうにも肌合いがあわない。
ま、好きな人もいるのかも知れないが、少なくとも、わしの視界の見渡す限りにおいてはひとりもいなかった。
海の向こうの変わり者のアメリカ人が書いた古典としてオトナが読む本である。
最近になって、あっ、そおーかなあー、と思うのはサリンジャーがわざと「「ライ麦畑でつかまえて」を「地方語としてのアメリカ英語」で書いたからではないか、と思う。
イギリス人ガキにとっては、あの小説を読むのが一場の苦痛にしか過ぎないのはそのせいではなかろーか。
しかもPency Prepというチョー狭い世界の英語で意図して書いたからだと思います。
そうやって考えてみると、夏目漱石にしても普遍語を生み出す前にやらねばならなかったことは近代感情をうまく表現できる東京の地方語をまず生み出すことだったわけで、やたらめったら造語して日本語に普遍語化への道を切り開く一方で、文体によってほぼ架空な地方語世界をつくることも出来た漱石先生は、やっぱし偉かったのだなあ、と思いました。